かつて札幌ドームを熱狂の渦に巻き込んだスイッチヒッターが、ただの観光客のように後部座席に収まっていた。
彼は現役時代からそうだった。
主役がホームランを打つ裏で、きっちりバントを決める影の仕事人。
そのスポットライトを外れた裏方の美学が、まさか引退後のタクシー車内で発揮されるとは誰が想像しただろうか。
運転手から最近これ見て勉強してるんですとパンフレットを渡された瞬間、彼の脳内コンピューターは瞬時に最適解を弾き出したに違いない。
ここで「俺杉谷っすよ」とドヤ顔を決めるのは三流のやることだ。
彼は自らのオーラを完全に消し去り、純度百パーセントの観光客を演じ切るという究極の犠牲フライを完成させたのだ。
一緒に応援しましょうと返すその表情には、泥だらけでヘッドスライディングを決めた直後のような清々しさすら漂っている。
こんな完璧な裏方の仕事を見せつけられて、平常心でいられるファンがいるわけがない。
ただ私は彼のこの神がかったステルス能力のせいで、エスコンの入場ゲートを通るすべての男性客が杉谷に見えてしまうという深刻な後遺症に悩まされている。


